銀髪碧眼の土地神と堂々と渡り合える図太さは特徴かもしれないが、海神の眷属である人魚の娘と言われるオリヴィエと比べると彼女はあまりに普通すぎる。
――いや、普通であるようリョーメイが育てているだけか。オリヴィエの娘でありながら市井で窮屈な生活を送っているがゆえに強大な『海』のちからを使わなくて済んでいるのは事実だし。
土地神となった那沙をいまもなおナターシャと呼ぶ御遣いの女性のことを思い、視線を彷徨わせる。ここで待っていろと言われてから早数刻。彼女の姿はまだ現れない。
道花もそのことに気づいたのか、那沙に声をかける。「それより那沙。涼鳴(すずめ)さんの姿が見えないんだけどいいの? あたしなんかとのんびりしていて」
「のんびりしているのが仕事だからいいのよ、ミチカちゃん」くすくすという笑い声とともに、白い長衣を羽衣のようにまとった女性が藁ぶきの家から歩いてくる。
「リョーメイ」
「スズメでいいって言ってるでしょう? かの国に土地神として封じられたナターシャさまからすれば、わたしをかの国風の名前で呼ぶのは不服かもしれないけど」 「面倒なだけよ。あなたがあたしを那沙と呼ばないのと同じで」セイレーン王朝が滅んで以来、かの国からのひとの流れが増加した。そのため、先に暮らしていた民もかの国風の通り名を常用するようになり、いまでは多くの人間が真名と通り名のふたつを器用に使い分けている。
なかには道花のように生まれた頃からかの国の言語を由来とするものもいる。いまとなってはセイレーン風の真名は生まれたときと死んだときにしか使われないため、真名がなくても、本人が知らなくても、実生活に支障がでることは殆どない。だが、神職に携わるリョーメイのように真名を大切に扱っている人間もいる。
国造りの神だった頃からの御遣いとして仕えている彼女は自分のことをスズメと呼んでいいと言いながら、那沙のことをナターシャと呼びつづけている。矛盾していると指摘しても、いまさら那沙さまなんて呼べないと言い返されてしまうのがオチだ。「あらそう? ナターシャさまはかの国の神皇帝に名前を奪われているだけだからいまさら別の真名を授けられても問題ないとおっしゃるのね?」
「現にそうでしょう? 海神に忘れ去られた末娘の石神は兄神が治めるかの国に円満に併合されたの。殺されなかっただけありがたいわよ」しかもこうしてのんびり土地神としてセイレーンに留まらせてくれているのだ。滅ぼされてもおかしくない自分がいまも御遣いや女王の娘と一緒にいられるなんて、女王を失った五年前の今頃は思いもしなかった。
けれどリョーメイは国神から土地神へ堕ちた那沙に容赦がない。いつかまたふたたび女王オリヴィエを据えて、セイレーン再興を夢見ているから。「そんなにいまの神皇帝は良い方なのかしら? ”いもしない”女王の娘を妃に据えようとしているのに?」
道花は自分が女王オリヴィエの娘であることを知らされていない。道花は自分のことをリョーメイに拾われた孤児だと思っているのだ。
「だから慈流(じる)を女王の娘として差し出すんでしょう? あたしはそれについていく侍女になるんだって那沙が言ってた」
「……ナターシャさま、ミチカちゃんに何を吹きこんでいるのです?」道花のヒトコトに、リョーメイの鬱金色の瞳が凍りつく。何か言ったらいけないことを口にしただろうかと慌てる道花を遮るように、那沙がにこやかに言い返す。
「吹き込むだなんて失礼しちゃうわ。あたしは事実を教えてあげただけ。カイジールひとりに神皇帝の面倒をまかせるわけにはいかないでしょう?」
* * * 伽羅色(きゃらいろ)に煌めく煉瓦の塔の頂上へ、ひらりと入り込む影がある。気配に気づいた少女は顔をあげて低い声で囁く。「あたくしの愛しい蝶々、今宵はどんな物語をきかせてくれるのかしら?」 純白のシーツにくるまって寝そべっていた少女は冷たい床に垂れ流していた黄金色の波打つ長い髪を煩わしそうに振り上げながら、差し出した真っ白な手のひらに止まる黒蝶へ柔らかな視線を向ける。 見る者すべてを溶かしてしまいそうな双眸は、深海の碧。触れれば今にも壊れてしまいそうな儚い体躯は陶器のように白く、白魚のような華奢な指先に色づく貝紫の爪がどこか妖艶な印象を与える。 シーツから垣間見える細い足首には、人間にはない透き通った薄青色の鰓のようなものが生えている。それは人魚の証ともいえる鱗だ。 かの国の五宮二塔一神殿のうちの一塔である伽羅色煉瓦塔(きゃらいろれんがのとう)。通称東塔と呼ばれるそこはかつてより罪人を捕えるための場として存在している。 いま、この塔に囚われているのは先代神皇帝を殺したセイレーンの人魚の女王、ただひとり。 じゃらり、と女王を捕えた鎖の音が室内に響く。一方に嵌められた鉄の足枷は、じゅうじゅうと音を立てながら難なく外れ、赤錆にまみれた姿でカラカラと音を立てながら転がっていく。だけどいまは夜。塔のてっぺんの出来事を、地上で見張っている警吏はきっと、気づくまい。 ――そう、逃げようと思えば簡単に逃げ出せるのだ。自分は『海』のちからを継ぐ神の眷属。ちからの大半を九十九に奪われようが、鉄の枷を塩水で錆させ、内側から壊すことなどわけもない。 けれどいままで何もできないふりをして過ごしてきた。行動するには早かったから。 この五年間。現神皇帝九十九が自分の娘を花嫁に迎えるまで。オリヴィエは待った。その間はおとなしく、幽閉生活を楽しんだ。とはいえそろそろこの狭い世界にうんざりしてきた。御遣いの黒蝶に様子見をさせているだけじゃ、やっぱりつまらない。自分が動かなくては。 黒蝶はオリヴィエの視線を受けて、姿を変容させる。紫がかった黒髪に灰銀の瞳を持つ少年は、恭しくオリヴ
「ボクは女王陛下の義弟で、ただの人魚。キミのように珊瑚蓮の気持ちを察知して癒すことはできない。九十九は珊瑚蓮の精霊を自分のモノにして世界樹の命運を託そうと考えているが、できればボクは道花に選んでほしい」 それはきっと、女王陛下が望まない未来だから。 カイジールの呟きに、道花は目を瞬かせる。「……那沙みたいなことを言うのね」 「そうかな? 彼女だったらもっと容赦ないと思うけど」 オリヴィエの娘であることを知らぬまま、神殿で暮らしてきた道花。自分が人魚と人間の間に生まれた存在だと生まれ持つ本能が示すから、彼女は自分もまた海神の眷属に連なる『海』の強力な加護を手にすることができたと理解している。オリヴィエすら持つことの叶わなかった珊瑚蓮の精霊という真名に代わる称号も、国神だったナターシャによって与えられた。はたから見れば人間にしか見えない道花に秘められたちからの大きさに、オリヴィエが警戒し、自分を葬ろうとしていたのもわからなくはない。「あたしがかの国に従って花を咲かせる存在になるから? それだけで女王陛下に嫌われる理由にはならないと思うんだけどなー」 道花は何度か刺客に殺されそうになったことがある。那沙をはじめ、リョーメイなどの神殿関係者が護ってくれたから、彼女はいままで生き延びることができたのだ。なぜ自分が狙われているのか問いただせば那沙は「あなたが珊瑚蓮の精霊だから」とだけ言って、気に病むなと話題を変えた。だから道花は気にしないふりをして、探っていた。そして女王が自分を厭っているという真実を掴んだ時点で、気が抜けてしまった。 自分よりちからが強いから排除する……あんな狭量な女王を慕いたくもないけど、と道花は思い出しながら手厳しく言葉を告げる。カイジールはそんな道花の震える両手を抱え込み、柔らかい口調で優しく諭す。「いまは女王陛下のことはいい。できればボクは彼女のことも救いたいけど……九十八をちからで殺めた時点で、彼女は戻れないところに行ってしまった気がする。それより道花は、ボクが九十九を玉座から蹴落とそうとしている人間の相手をしているうちに、バルトに会って、話してこい」 いまもかの国で政務官
「仙哉どのは玉座に興味などないと口にしていたが、母君の執着ぶりを耳にしたボクとしては、放っておけないなぁ……」 「だけど慈流。悪だくみをしていたのは仙哉さんじゃなくて第三妃の息子なんでしょう?」 「ああ。三年前の内乱では幼かったがゆえ誰からも相手にされなかった皇子がいまになって暗躍しているようだ」 九十八の五人の妃のうち、政略結婚によって彼に嫁ぐことになったのは第二妃と第三妃のふたり。他の三人は女好きの彼が手をつけたり攫ったことで妃の座を与えられたという。 第二妃は帝都清華と呼ばれる政治派閥で頭角を現していた藤諏訪一族の姫で、第三妃はそれと敵対する古都律華(ことりつが)から選出された姫君だった。第二妃が産んだ息子が九十九という名を与えられたことで、後継者問題は落ち着いていたが、第三妃と彼女をとりまく古都律華の人間はそれに納得していなかったらしい。九十八がオリヴィエに殺された後、謀反を起こし、九十九によって一族郎党皆殺しにされている。どうやらその際、第一妃の長男、陣哉も共闘しており、命を散らしたとされる。「第三妃には三人の息子がいたが、そのうちのふたりがこの内乱で死んでいる。生き残ったのは当時十歳に満たなかった第七皇子のみ」 「一族郎党皆殺し……」 そこまでするのかと、道花は顔を真っ青にする。だが、広大な国ほど、争いは醜く激しくなるのが常だ。 幼かったからと殺されず、独り取り残されてしまった皇子が、復讐に燃えるのは仕方のないことなのかもしれない。「かの国では忘れ去られた皇子として、空気のような扱いを受けている。三年前の内乱で心を病んで、公の場に姿を見せなくなったのもひとつあると思うけど」 「……でも、晩餐会には顔を見せていたんでしょう?」 あたしは見てないけど、と不安そうに道花が尋ねると、カイジールもうん、と首を傾げて応える。「それが不思議なんだよな。活どのと話をしているのは耳にしたんだけど、姿を見たかというと……どんな容姿だったかぜんぜん覚えていないんだ」 まるで人魚が使う目くらましの術を施したかのように、彼は存在感がなかった。生粋の人魚であるカイジールですら
* * * 「なんとか今日一日ごまかせたね」 海から聖水を汲み上げ、箱馬車に乗って宮殿へ戻ってきた道花は桃花桜宮の客室でふぅと溜め息をつく。「……いや、ぜんぜんごまかせてねーぞ」 カイジールはそんな道花の言葉に呆れながら、すでに九十九は自分が女王の娘ではないことを知っているのだと彼女に告げる。「え、そうだったの? でも、花嫁どのって」 「形式上だよ。向こうには向こうの都合があるんだ。ボクたちが女王の娘をすぐに準備できないのと同じで」 「……はぁ」 なんとなく腑に落ちない言い方をされ、道花は胸元に手をあて、首を傾げる。「なんかモヤモヤするなぁ、そういうの」 すでに宮廷装束は脱ぎ捨て、セイレーンから持ってきた部屋着一枚になっている道花はカイジールが着物の帯をぐいぐい引っ張ってほどこうとしているのを手助けしようと背後へまわる。「とりあえず道花はいつもどおりに過ごしていればいいから」 背中越しのカイジールの声に、道花はこくりと首を振る。「……うん」 彼がそう言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。自分は神殿内で珊瑚蓮の精霊と呼ばれ、その加護の大きさを見込まれてカイジールの侍女となったのだ。彼に何か起これば、そのときは身代わりになることも必要だと、那沙は口にしていたし、彼も道花が九十九の花嫁になれなんて言っていたけれど……「だけど慈流。あたしにできることがあるのなら、ちゃんと教えてよ?」 「ああ。いまは体力を温存させてゆっくりしてろ。下手すると、こっちまで巻き込まれかねないからな」 その言葉に道花は凍りつく。かの国で三年前に繰り広げられた神皇帝の継承問題は、まだ完全に解決していないのだと。「……それって大変じゃない!」 「――だからキミにはおとなしくしてもらいたいんだよ。珊瑚蓮の精霊――ロタシュミチカ」 改めてカイジールに役割を告げられ、道花は身体を震わせる。 セイレーンの海に古くより生きつづける珊瑚蓮は、創造神と海神が戯れに
* * * 今日は、新月。 月のない藍色の夜空は、僅かな星明かりだけが道標になる。 道花とカイジールを乗せた箱馬車は司馬浦の港へ到着した。ひとがごった返していた船乗り場は今朝とうって変わってしんと静まり返っている。「海水を採取されるのでしたら、北の波止場がいいでしょう」 「ありがとうございます」 宮廷装束姿のままの道花は素直に頷き、木陰に教えられた方角へ一目散に駆け出していく。羽衣を纏った天女のように軽やかな後ろ姿を見て、九十九は苦笑する。「侍女どのは、せっかちなのだな」 「終始落ち着きのない娘ですみません」 カイジールはそっけなく応え、道花を追って行った木陰の姿が見えなくなったのを見計らって、指先で素早く魔術陣を描く。ふたりを囲むように銀色のひかりが砂地に浮かぶ。「慈流どの?」 一瞬にして波音が止み、砂の上に取り残された九十九が不審そうにカイジールを見やる。どうやら結界を張られたらしい。 ひっそりとした夜闇に囲まれ、ふたりは互いの表情を見つめ合う。「ようやくふたりきりで話ができるな」 その声色の変化に、九十九は驚くことなく首を縦に振る。「……やっぱり男性だったのか」 「あいにく、ボクはキミの花嫁になれないんだ」 さばさばした口調で告げるカイジールに、九十九は首を傾げる。「初対面のときより随分刺々しさが減ったな」 「そりゃ、最初はキミを殺してやろうと思っていたからね」 自分を殺そうとしていた、と晴れやかな笑顔で言われて九十九もようやく思い出す。自分の父親が彼の一族を恐怖に追いやった過去を。「ということは央浬絵どのの血縁者か」 「残念ながら血は繋がっていない。ボクは彼女の娘ではない、どっちかといえば弟だ」 「血は繋がっていないのに弟?」 「両親が違うのさ。九十八が心臓を抉りとって食したのは、央浬絵の産みの親であるのは事実だが、ボクを育ててくれた親でもある」 だから自分はかの国の
「迎えに来たぞ、陣仙(じんせん)の舞姫」 迎えに来てと頼んでもいないのに、男は堂々と踊り子の少女に宣言する。海の匂いのする青年は少女の華奢な腕をとり、跪いて手のひらへくちづけを送る。「……哉登(かなと)さま?」 迎えに来るとは一言も口にしていなかったのに。ひとりで踊り子として生きていこうと、そう決意した矢先に、彼は現れた。 まるで神の遣いのように。「なんだ、嬉しくなさそうだな」 「だって……もう二度と逢うことはないと」 一晩限りの遊戯だと、そう思っていたのに。瞳を潤ませて応えれば、そんな言葉はききたくないと彼の唇に塞がれる。「周りの人間の言うことなど気にする必要はない。俺は神のちからをこの身に引き継いだ王だ。お前を妃にするくらい、簡単なことさ」 啄ばまれた唇が離れれば、飛び出すのは偉そうな言葉ばかり。「ほんとうに、いいのですか」 信じられなかった。大陸の向こうでは佳国(かのくに)の神の血を引き継いだ王が島々を統べていると、寝物語できいたことはあったけれど、お伽噺でしかないと思っていたから。 まさかほんとうに自分と同じ世界に生きていたなんて。そしてあろうことか天涯孤独の自分を妃に望むなんて。「俺はお前が欲しい。ついてこい、活」 一度は叶うことない恋だと諦めていた。けれど彼は迎えに来た。自分を妃にするために。 差し出された手を、振り払うだけのちからはなかった。「はい」 ――それはいまから三十年以上前の、九十八代神皇帝哉登が最初の妃を娶ったときの物語。 * * * 兆大陸の東に位置する潮善と呼ばれる国の舞姫、活凛(かつりん)は、神皇帝に求められ、皇一族に仕える狗飼家の養女となり、妃となった。狗飼活という名を与えられた彼女は寵妃にのぼりつめ、やがて二人の男児を産んだ。 子どもの名は活が生まれ育った陣仙の地に因み陣哉と仙哉と名付けられたが、活が異国出身の踊り子であることから皇位継承権はないに等しかった。 反対に、第二妃でありながら近年のかの国の政に欠かせない帝都清華(ていとせいが)の娘、藤諏訪季白(ふじすわときしろ)が産んだ息子が陣哉と仙哉よりも幼いというのに次代の神皇帝として九十九という通り名を与えられ、大事に育てられたのである。「……陣哉が生きていたら」 過去を反芻し、遠い目をしていた活は口元から零れた言